ヴェンセスラウス・キノルド(Wenseslaus Kinold)
1871年7月7日ドイツ、ギールスハーゲン(Giershausen)に生まれる。1890年10月7日フルダ管区に入会。1897年7月1日司祭叙階。
【来日までの経緯】
ベルリオーズ函館司教(北海道と東北を管轄)は、ローマでフランシスコ会総長と会い、日本への宣教師派遣を要請。総長の要請により、アフリカへの宣教を準備していたキノルド師は急きょ日本行きが決まり、日本宣教団の長として1907年1月7日来日。キリシタン時代の後、250年ぶりに再来日した最初のフランシスコ会宣教師の一人となった(もうひとりはモーリス・ベルタン)。
【札幌北部とその周辺への宣教】
ベルリオーズ司教は札幌北部と周辺の宣教をフランシスコ会に託した。そして、宣教の拠点として、1908年北15条東1丁目に聖フランシスコに捧げた修道院を設置し、キノルド師は初代の院長となる。ベルリオーズ司教は同年11月12日に修道院付聖堂の献堂式を挙行し、後の北11条教会の前身となる聖堂が設置される。
【札幌修道院フルダ管区編入】
当初、フランシスコ会総長は日本宣教を様々な国の管区からなる国際宣教団として進める計画であった。しかし、現場の責任者であるキノルド師は一つの管区が責任を持って北海道宣教を行うべきと考え、総長に願い出る。そして、1911年9月8日付けで札幌修道院のフルダ管区編入が決定される。これ以後、札幌の宣教はドイツのフルダ管区が担当することになる。
【司教叙階】
1915年4月13日、函館司教区から分離し札幌知牧区が設置、キノルド師は初代教区長に任命される。さらに、1929年4月3日札幌知牧区は代牧区に昇格しキノルド師は司教に叙階される。
【教区長辞任】
北海道各地に教会を設置、小神学校を作り邦人教区司祭の養成、出版事業として光明社を設立し公教典礼聖歌集、聖書、聖人伝などの日本でも先進的な出版活動を展開、また女子教育のためシスターを招き藤学園の開校や、男子教育として光星高校の前身となる学校を開校するなど後の札幌教区の礎を築く。
しかし、日中戦争が勃発し、戦時下で外国人が教区長であることが難しくなる中、キノルド師は1940年教区長を辞任。
1952年5月22日札幌で帰天。80歳。
【召命】
1870年フランス、パリに生まれる。1895年(明治28年)フランス海軍士官だったモーリス・ベルタン氏は軍艦イズリー号に乗船し長崎に寄港。日本26聖人に捧げられた大浦天主堂を度々訪れ祈っていた。彼はその時、神の招きを感じ、長崎のマルナス神父に相談する。神父は神の呼びかけを大切にするよう励まし、自分も毎日そのために祈ることを約束した。モーリス・ベルタン氏は帰国後、日本の宣教師となるためフランスでフランシスコ会に入会する(1896年10月10日)。1901年司祭叙階。1903年、当時まだ準管区だったカナダ管区(聖ヨゼフ管区)へ派遣される。
【来日】
ベルリオーズ函館司教は、ローマで長崎のマルナス神父と偶然出会い、日本の宣教のためにフランシスコ会に入会したモーリス・ベルタン神父のことを聞き、さっそく宣教師派遣をフランシスコ会総長依頼する。1906年モーリス・ベルタン神父はカナダを出発し、ローマでピオ十世教皇に拝謁し宣教十字架を頂く。11月にナポリでキノルド神父と合流しアメリカ経由で1907年1月7日横浜港に上陸する。キリシタン禁令時代の後、250年ぶりにフランシスコ会は日本において再び宣教活動を始めることになった。二人はすぐに札幌へと向かう。
【最初の修道院】
やがて6月にゴーチェ神父、ガブリエル修道士が到着した。現在の北1条東3丁目の民家を借り、仮修道院とし修道生活を始める。1908年現在の北15条東1丁目に本格的な修道院を建設する。
【亀田修道院創設】
パリ外国宣教会が司牧していた亀田教会の司牧をフランシスコ会が担当することになりモーリス・ベルタン神父は1909年函館の亀田教会へと赴任する。そこにモーリス・ベルタン神父は日本で二番目のフランシスコ会の修道院である亀田修道院を建設する。1914年まで亀田修道院にて宣教活動を行い、学生を集めて寄宿させるなど小神学校のようなものもあった。写真は寄宿の学生と撮ったもの。モーリス神父40歳ぐらいの時。
亀田教会は後に宮前町教会となるが、戦後、宮前町教会の主任司祭となったパリ外国宣教会のケヌエル・アラン神父はモーリス・ベルタン神父の甥にあたる。
【新しい宣教地】
1911年フランシスコ会の北海道における宣教はドイツのフルダ管区が担当することになった。やがて1921年にカナダ管区は鹿児島・沖縄地区を宣教地として委託され、北海道にいたカナダ管区の宣教師達は鹿児島へと移って行き、モーリス・ベルタン神父も鹿児島の地区長として新たな宣教地へと向かう。そして、1922年からモーリス・ベルタン神父は奄美大島を中心に宣教し、大島高等女学校の創設などに関わる。
写真中央は当時のモーリス・ベルタン神父。50代前半か。鮮明ではないが、オリジナルの写真では他の島の人たちと同じく足には地下足袋をはいているのがわかる。歩いて信者の家を訪問するなど、地域の人々とともにある宣教をしていたことが伺われる。「聖堂の日の丸」(宮下正昭著)によれば、モーリス・ベルタン神父は、後から来日した若い神父たちが島の貧しい生活に溶け込もうとせずオートバイなどを乗り回すような宣教をしているのを戒めていたと言う。この本によれば、後にモーリス神父がフランスへ送られて、さらにベトナムへと派遣されたのも左遷されたとの見方もあると紹介している。
これ以後、奄美大島では日本が戦争へと向かうなかで、カトリックへの反感が強まり、厳しい迫害が始まって行く。
【ベトナム宣教】
1928年モーリス・ベルタン神父は東京での修道院開設のためフランスへ帰国していたが、そこでベトナムへの宣教へと向かうことになる。1929年、モーリス・ベルタン神父はベトナムへ行き、フランシスコ会ベトナム管区を創設した。
1968年7月8日ベトナム−サイゴンで帰天。98歳
写真は兄弟村上(OFM)がベトナムを訪れた時に撮った写真。モーリス・ベルタン神父のお墓。ベトナムの信者さんの中では大変尊敬されていると言う話を聞いた。
ゲルハルト・フーベル(Gerhardus Huber) ゲラルド・ウベルまたはゲルハルト・フーバーと表記するものもある。
【来日まで】
1896年10月31日ドイツのフランクフルト近郊ゲルンハウゼンにて出生。18歳の時に第一次世界大戦勃発し、オーストリア軍将校として従軍。23歳の時に敗戦、戦争の悲惨さを体験し、世界の平和のために尽くしたいとの思いから1919年フランシスコ会へ入会。1923年に荘厳誓願、1925年に司祭に叙階された。ドイツでは広報の仕事をしていたが、少年時代より日本に憧れを持ち、日本へ宣教師として志願していたが、三年後に許可が与えられ1928年1月31日来日し同年2月7日に札幌フランシスコ修道院に着く。
【帯広教会設立】
1930年帯広へ派遣される。十勝川河口付近に住むキリシタンを探し訪ねていたと帯広教会創立の記録にある(『躍進』札幌教区昇格五十周年記念誌)。1930年10月17日帯広教会献堂、初代主任司祭に就任する。
【執筆・研究活動】
その後、再び札幌へ戻り1936年よりフルダ管区の分管区長に就任。北海道各地を巡回する一方で北海道帝国大学教授児玉作左衛門氏との交友を深め、同大学にてドイツ語を講義した。また、研究熱心なフーベル師は、江戸時代初頭、既に蝦夷地に多くの切支丹が存在したことを知り、外国の史料などを使いつつこれを同大学にて講義し、それをまとめて1939年に『蝦夷切支丹史』として光明社から出版(この本は1973年(株)北海道編集センターより「北海道の名著」復刻双書として再版され、永田富智氏による同書の解説とG.フーベル師の略歴が付録されている。本稿も、この付録より多くを参照している)。
やがて戦争の時代を迎え宣教には厳しい時代が到来した。ドイツは日本の同盟国ではあったが、ドイツ人宣教師も憲兵の監視の対象となり、また様々な形で行動を制限されたと言う。
戦後、分管区長はエマヌエル・ゼントグラフ師が就任、G.フーベル師は札幌を離れ小樽に移った。小樽では小神学校を担当し、小神学生の養成に携わると共に、小樽商科大学にてドイツ語の講義をした。また、「ころびキリシタン」「散りゆく蓮」「あやめ」「江戸の地獄」(光明社)の切支丹時代を舞台とした小説や「二十六聖人物語」(聖母文庫)も出版。その他、永田富智氏の解説によれば、ドイツ語で書かれた「ジャパン」「伊達政宗とルイス・ソテロ」なども出版されている。
【晩年】
晩年は札幌修道院にて過ごし、マリア院のシスターのミサや、天使病院のチャプレンなどのミッションを果たし、1978年9月7日札幌にて帰天、81歳。